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幡ヶ谷台地は武蔵野台地の末端の一部で、渋谷区の北部を東西に延び、北は神田川の谷に面し南斜面は代々木川・宇田川(渋谷川の支流)に侵蝕され、千駄ヶ谷・代々木・西渋谷の台地に連なっている。代々木台地に並んで南に突き出している支丘は初台台地(標高約39m)で、この台岬(台地の先端)には代々木八幡神社があり、その境内には縄文時代の遺跡もある。

原始・古代・中世期

代々木八幡遺跡でわかるように、原始時代にすでにこのあたりの台地には我々の祖先が竪穴式住居をつくって住み、海で貝を拾い、山野に鳥獣を狩り、木の実や草を採って生活していた。この時期は台地の下まで海が入り込んでいた。明治神宮や代々木に古墳があったように、この時代にもこのあたりには人間の営みがあったと思われる。

さらに、後三年の役(永保3年〜寛治元年10831087)の後、八幡太郎 義家が奥州から上洛の際にこの辺を通り、白旗を洗って傍の松にかけて乾かしたという旗洗池の伝説があり、建暦2年(1212)には代々木八幡神社が創建され、永正17年(1520)には代々木の山中から十一面観音が掘り出されたと伝えられている。

また、永正年間(15041520)には幡ヶ谷の荘厳寺が創建され、永禄2年(1559)「小田原衆所領役帳」に原宿・幡ヶ谷・千駄ヶ谷・下渋谷の地名がみられるなど、このあたりに生活していた人々がいたことを示している。

近世期・江戸時代≫

天正18年(1590)徳川家康が江戸城に入ってからも、この辺は江戸の郊外の農村であった。

五街道の一つ、甲州街道は正しくは甲州道中と呼ばれ、日本橋を起点として日本橋通り東海道と分かれ、日比谷から半蔵門を左折して四谷・内藤新宿・代々木・幡ヶ谷を通って甲府まで道中三十四次、さらに下諏訪で中山道に合している。宿場は内藤新宿の次が上高井戸であるが、幡ヶ谷新町には小休場があった。

甲州街道に並行してつくられたのが、旧玉川上水で、松平伊豆守信綱を総奉行、伊奈半十郎忠治を道奉行として承応2年(1652)四月、庄右衛門・清右衛門兄弟によって着工され、取水口の羽村から42Kmの四谷大木戸まで掘割を作り上水を引くという大工事であった。その水路は武蔵野台地の中央分水背をたくみにたどっている。現在の新宿御苑の北東部に水番所があって

ここから石樋や木樋を地中に埋めて江戸市中に給水した。明治3年から5年まで村々の産物を運ぶ通船が許されたこともあった。

初台という地名は、太田道灌が今の代々木八幡の地に築いた築城八ケ所の一つの砦から出た名であるといわれる。また、徳川秀忠の乳母、土井昌勝の妻柴山氏は、ここに住んでいたので初台の局といわれ、天正十九年(1591)に代々木村に二百石の地を賜った。初台の地名は、この初台の局に由来するとも伝えられている。

江戸末期のこの地域は、渋谷や千駄ヶ谷に比べて武家地は少なかった。幡ヶ谷村には、唐津藩の小笠原家、松江藩の松平家の抱屋敷があり、代々木村には三春藩の秋田家、高槻藩の永井家、 旗本の林家、彦野藩の井伊家、陸奥長瀞藩の米津家など、いずれも抱屋敷・下屋敷であった。

幡ヶ谷村は東西23町(約2.5km)、南北八町(約0.9km)余り、家数138戸。代々木村は東西30町(約3.3km)、南北25町(約2.7km)、家数166戸という寒村であった。

   代々木・幡ヶ谷の主な小字

 

甲州街道と玉川上水に挟まれた細長い街並みで、東は文化服装学院から西は幡ヶ谷駅付近に至る。甲州街道の発達と共に早くから商人が軒を連ね、代々木村内で最も賑わっていた。

 

現初台1丁目の天理教初台教会付近南から区立山谷小学校付近に至る地域。代々木九十九谷といわれたほど谷の多い地帯で、最も地形が起伏している。かって、山の斜面には畑が、窪地には水田が多く、高野辰之が「春の小川」を作詞したモデル地帯と言われる。岸田劉生の「切り通しの坂」もここにある。

伝承によれば、太田道灌が築いた築城八ケ所の一つから地名が起きたとされる。徳川秀忠の乳母で土井昌勝の妻・柴山氏は、天正19年代々木村に二百石を賜り、初台の局と称された。

今の元代々木付近、代々木本町と言われた地域。

 

明治・大正期

明治22年町村制施行により、代々木村と幡ヶ谷村が併合して代々幡村が成立し、その後大正4年、町制が施行され代々幡町となる。その間京王電車が開通するなどして地域人口は増加の一途をたどり続けた。

   代々幡地区における人口推移

住居戸数(戸)

人口(人)

明治39年

573

3,608

42年

1,020

4,906

大正 元年

1,533

6,190

4年

2,234

10,433

7年

3,474

16,725

10年

6,845

27,425

14年

13,044

55,365

昭和 2年

17,046

70,832

6年

18,960

79,533

 

大正時代の幡代周辺は、まだ野原や畑、雑木林が多く美しい自然の環境の中にありました。空は青く空気はきれいで、夜は星が煌き、北斗七星や天の川が美しく流れていました。雑木林には鳥が囀り、野にはバッタやトンボ、蝶などが飛び交い、咲き乱れる花に戯れ、澄み切った小川には鮒やダボ・メダカ・どじょうなどが泳ぎ、岸の夏草の中にはきりぎりすや馬追いが鳴きつづけていました。雑木林には小鳥が巣をかけ、フクロウが大きな目をしていたり、木の樹脂のでるところにはカブト虫やクワガタが集まっていたり、現在の様子からは想像もつかない世界でした。

資料:「幡代百年」より抜粋